がんストーリーは突然に~46歳、働き盛りの2児の母が直腸がんになった話~

2018年夏、元気印の働く母が突然がん患者になっちゃった…入院そして外科手術を経て、まだまだ続くがんストーリーを綴ります。

がんで亡くなるということ~膵臓がんステージ4で治療をしない選択をした大叔父さん

この9月末に、私が大変お世話になった大叔父さん(父の父の弟、以下おじさんと表記します)が膵臓がんで亡くなり、葬儀に参列してきた。

 

おじさんが末期がんであると実家の母から聞いたのは、今年のゴールデンウイークを過ぎたころだろうか。そして、もういつどうなってもおかしくない状態、もって一か月だろうと宣告されたと聞いたのが、私がまだがん研有明病院に入院していた8月末のことだった。

 

そのおじさんは、私と同じ県内に住んでいることもあって、昔からとても可愛がってくれていた。親元を離れ東京の大学に進学し、一人暮らしをしていたときにも、近くにいるからと気にかけてくださったり。私がブラジルに住んでいるときにも、メールで(!)連絡をくれたり。祖父の兄弟は6人いるけれど、その中で間違いなく私と一番濃くお付き合いがあったおじさんだ。

 

わたしの祖父は100歳で亡くなり、末の弟であるおじさんは89歳。祖父は病気知らずでとても体が強い人で、おじさんも祖父に負けず劣らずの強い人だった。だから本人も、兄貴と同じ100歳まで生きるぞ、と常々言っていた。去年11月の祖父の3回忌では親戚一同の前で元気に挨拶をし、本当に余裕で100歳を行きそうだったのに。100歳までまだ10年も残して、逝ってしまった。

 

別の疾患の検査でエコーをやったら、どうやら膵臓に何かあるようだとわかり、詳しく調べたらそれは悪性で、すでにステージ4だったと判明したのが3月だという。その時点で余命半年と言われ、全くその通りになった。

 

残りの人生半年と言われ、100歳まで生きる気マンマンで、それまで元気だったおじさんは、そりゃあショックだった。ほとんど自覚症状はなかったのだから。がんに対して、体力的にもう手術は出来ないけれど、抗がん剤などの延命治療を受けるという選択肢はあったという。でも、おじさんは、「最後くらい好きなようにさせてくれ」と、何の治療も受けないことを選んだ。ある意味、自分の運命を受け入れ、自然に逆らわず、最期を迎えることを選んだのだ。

 

私がおじさんの娘だったら、と思う。自分の親に対して、少しでも長生きしてほしい、と願うと思う。でも、自分ががんを患ってみると、その考えは少し変わった。がんの治療を受けて辛い副作用に耐えながら生きる人生が果たして良いのか…と真剣に思うようになった。

 

あと半年あるならば、その半年をどう生きるのか。そのことを自由に、自分の意志で決めると本人が言うのなら、娘として受け入れるしかないかな、とも思う。

 

でもでも。

いま話題の免疫療法で、もしかしたら奇跡的にがんが消えるかも知れない。その可能性を、何もやらずに捨ててしまうという選択は、果たして娘として受け入れられるだろうか…?

 

ちょっとここは実際に娘ではないので、その時にならないとわからないけども。

 

さて、余命半年と言われたおじさんがしたことは。ゆかりの地を家族とともにめぐる旅であった。生まれ故郷の北海道(わたしの実家でもある)、志願兵時代に過ごした茨城、そして長いこと駐在員として暮らしていたマレーシアやインドネシア、タイなどの国々…。ステージ4のがん患者でも、海外旅行に行けるんだ!ってびっくりなんだけど、今年の6月に最後の東南アジア旅行に実際に行ってきた。その時の写真がアルバムにおさめられ、緩和ケア病棟のおじさんのベッドサイドに大切に置いてあった。

 

そんな風に、最後まで世界を飛び回ったおじさんは、ぎりぎりまで自宅で暮らし、8月末にお腹が痛くなって病院にみずから出向いた前の日まで、趣味の畑仕事に精を出していたという。農家出身だからか、晩年は市民農園での野菜作りが生きがいで、猛暑の夏も毎日畑に出ては家族を心配させていたという。

 

そんなおじさんの最期。自分で選んだ最後の半年は、きっと充実していただろうし、楽しかっただろうし、満足していただろうな、と思う。半年が長いか短いか。それはその人その人によって違うと思うけれど、限りある命の、文字通り「限り」を知ることができる「がん」という病気とは、なんというものだろう。

 

人はいつかかならず終わりを迎える。私は今回、自分ががんを患って、死を身近に感じざるを得なかった。(だって、入院中にさくらももこさんが乳がんで亡くなったし、山本KIDさんも…樹木希林さんも…)

自分は幸いにして、余命宣告をされるステージではなかったけれど、それでもやっぱり、死というものはそれまでよりもっとずっと身近なものになった。

 

そんな時ふと、思った。

自分は結局のところ、何で死ぬんだろうな、と。いったい、何で死ぬのがいいんだろうな、と。そんなこと考えるなんて縁起でもない、と言われたとしても、考えたことは考えたんだから仕方ない(苦笑)

 

その時ちょうど何で読んだあるフレーズ。

「がんで死ぬのは、悪くない」。

確か、がんの専門医が書いた何かの本かコラムだった。

 

なるほど、確かに。と、素直にそれを読んだとき思った。

限りある命の限りを知り、その日を迎えるまでの日々を納得いく形で過ごす。そして最後を迎えることは、悪くないかも…と。

突然何かの拍子に思いがけず死んでしまうよりも、命の限りを見据えて、好きなように生きるほうがいい、とその時思ったんだよね。

 

その思いと、おじさんの「治療を受けず最期の半年を好きに生きる」という選択とがリンクして。妙に納得してしまってね。

ある意味、自分の死に方を、おじさんは自分で決めたのだなぁ。

 

がんになること自体は、人は自分で決めることはできない。けれど、なってしまった自分とどう向き合うかは、自分で決めることが出来る。その決め方は人それぞれでいい。延命治療を受け、一日でも長くと望むもいい。一日でも長くと望む家族のために、辛い治療に取り組むもいい。それこそは自分の意志であるべきだし、その決定に対して、他人がとやかく言うものでもない。

 

8月の末に退院し、それから数週間経ち、ようやく外出できる体力と気力が戻った9月の半ばに、私はおじさんに会いに緩和ケア病棟へと足を運んだ。私の生き方に大きな影響を与えてくれたおじさんに、どうしても最後に感謝の言葉を伝えておきたくて。

 

私が高校まで過ごした北海道の実家に、おじさんはよく遊びに来ていた。小さいころ、マレーシアやインドネシアの珍しいお土産を手に、派手な柄のシャツで現れるおじさんの姿はとてもカッコよくて。中学くらいになると、海外の話、英語の話をいろいろと語ってくれた。ド田舎で外国人なんて見たことももないし、英語なんて聞いたこともない…という環境で生きていた私にとって、世界へのとびらを開いてくれた重要人物は間違いなくおじさんだ。おじさんのおかげで私は海外に興味を持ち、英語を学びたいと思うようになり、世界を飛び回れる仕事に就きたい!と思うようになったのだから。

 

そのことを改めて伝えておきたかった。だから、私が退院して外出できるようになるまで、どうかおじさん、頑張って生きていて!と願っていた。

 

ベッドから体を起こして、なんとか会話ができる状態になったおじさんの手を握り、

「おじさんが私に、世界が広いってことを教えてくれたよ。おじさんのおかげで、私は今の人生を生きることが出来ています。ありがとう」と涙をこらえて伝えた。おじさんは強い痛み止めを常時使っていて、そのせいかやっぱり少しもうろうとしているところがあったから、私の言葉がちゃんと伝わったかどうか定かではないけれど。おじさんが生きているうちに、ちゃんと言えて良かった。伝えたいことを、生きているうちに伝える。それは伝える側のエゴになるかも知れないけれど、伝えられずに終わって後悔するのは避けたかった。会えるものなら会って、ちゃんとありがとうを言いたかった。

 

病室でのおじさんは、痛み止め(モルヒネ)を使っているとはいえ辛そうで、しんどそうだった。きっと私の手術直後のあの痛みが長く続いていて、それに耐えている毎日なんだろうなと想像した。しんどいよね、と声をかけると、目を閉じて言葉なく強く数回うなずいた姿が忘れられない。

 

遺影のおじさんは、美しいバティックを着て、笑顔だった。もう会えないのか、と思うと寂しい限りだけど、みんな順番だからね。これまで本当にお疲れさまでした、と敬礼した。

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がんを受け入れ、最後までがんと共に生きたおじさん。そういう生き方もあるし、がんって、そういうものだよね…っておじさんは改めて私に教えてくれた。

 

だから私も、今後どういう風に転んでも、自分を受け入れ、自分を構成するものたちと共に生きていくよ。私に世界の広さを教えてくれたおじさんに、最後にまた一つ教えられたね。

ありがとう。ご冥福をお祈りします。